誰にも言わずにここに置く

誰にも言わないけど留めておきたい、内省と個人所感メモ。というか主に愚痴。

大丸梅田の生理バッジ

大丸梅田店の女性向け売り場「ミチカケ」で、店員が生理中であることを示す

「生理バッジ」の試験運用を始めた。

・・というニュースが、世間を騒がせているようだ。

 

なかなか果敢だなあ、というのが、まず率直な感想だ。

 

私が店員なら、バッジをつけるのはかなり抵抗があるだろう。

多分、つけられないかもしれない。

バッジを付けてる店員さんは、本当に勇気があると思う。

でも、取り組み自体は興味があるし、

大丸という大きな看板の影響力にも好奇心が湧く。

 

ミチカケの意図も、ある程度理解できる。

婦人系の悩みを持つ人は多い。

それこそ極限にパーソナルな事情の解決を求めて来店した客に、

店員も真っ裸になって、「客と店員」ではなく「同じ女性同士」として

向き合おうという姿勢は勇者というか、漢気さえ感じる。

ただ、その思いが通じるかどうかはまだわからない。

 

 

ヤフーニュースでは、5000を超えるコメントがついている。

それだけで、社会実験的には成功だと思う。

 

意見のほとんどが、「必要ない」「気持ち悪い」「嫌だ」など、

ネガティブな意見。

そうそう、それですよ。

要するに、その感覚に一石を投じるための挑戦なんだから。

 

 

 

女性の性がタブー視されていた時代からは、

ゴールデンタイムに生理用品のCMが流れるなんて考えられないだろう。

どんなことも、開拓者がいて、抵抗に遭いつつ援護も受けつつ、

いつしか社会の当たり前になってきた。

もしかすると「ミチカケ」の取り組みは、新たな「当たり前」への1歩かもしれない。

 

 

とはいえ、そうすんなりは行きそうにない気配だ。

私自身、どうしても業務に差し支える場合以外は、

仕事関係の人に生理中であると打ち明けたりしない。

というか、風邪でも、少々熱があっても、言わない人が多いんじゃないだろうか。

 

「生理中です、ってバッジで主張して、客に気遣って欲しいのか」みたいな

コメントがけっこうあったけど、

多分、生理でなくても、「今日は熱があるんですよ〜」などと

自分から仰々しく訴える人は、男女問わずあまり良く思われないんだろう。

 

でも、普段マスクをしない人がしてたら「風邪なの?大丈夫?」て訊くし、

店員が生理だとして、それを気遣うのが、そんなにイヤかね?

しんどくても頑張って仕事してんだから、人として普通に労ればいいんじゃないの。

まあ、しんどくない人もいるみたいだけど(うらやましい・・)

 

 

男性も女性も、性はとてもデリケートな話題だ。

ホイホイと誰にでも話せるものではない。

だから苦しむ。

専門的な助言は病院や薬局が主な窓口だろうから、

信頼できそうな百貨店で気軽に相談できるのを、頼りに感じる人もあるだろう。

 

かといって極端な話、

「ありのままだから、誰だろうと裸を見せ合っても恥ずかしくない!」

なんてとこまで行ってしまうと、それも違うと思う(そういう人たちもいらっしゃるけど)。

生命を紡ぐ性には、やはり神秘性と、畏怖があるべきだと思うのだ。

サンクチュアリだ。

すべてをあけすけにすることが、権利の獲得、認知の高まりではない。

ただ、知らないことには敬いようもない。

 

 

ただ、どうして生理の話が恥ずかしいのか、自問してみる。

何が、恥ずかしいのか。忌まれるのか。

もし、経血が違う場所から流れたら?

耳から出るとか。

ここまで恥ずかしいだろうか?

 

握手で受精できるとしたら?

・・特に夜陰にまぎれなくていいような。

 

やはり、隠すべき大事な場所だよと幼いころから教わった場所に関わるから、

恥ずかしいのだろう。

それは、命が大切だからだ。

握手みたいに簡単にできてしまってはいけないからだ。

 

だから、今回の「生理バッジ」が、犯罪を助長してしまうなら、

ほかのどんなメリットがあっても、ダメだと思う。

そうでなく、男性も女性も、従業員同士も客も思いやり合えて、

女性たちがもっと堂々とできる、

「生理ですみません」「妊娠して申し訳ない」なんて言わずに、思わずにすむ

社会を拓いていけるなら、

私は大いに意義があると思う。

バターでスキンケアはできるだろうか

銭湯でホホバオイルを紛失。

注文した新しい瓶が届くまで少しかかるので、

何とか自宅にあるもので顔の油分を補いたい。

 

まずはエキストラバージンのオリーブ油を試す。

特に違和感もダメージも感じなかったけど、

食用は化粧用に比べて不純物のろ過が甘く、

肌には向かないとネットで読んで、中止。

 

ならバターでどうだろう・・と、

ググってみたけど、

アバターカカオバターの解説ばっかり。

どうやら牛乳のバターを顔に塗りたい人はいないらしい。

 

1本だけ、バターが昔むかし塗り薬に使われていたと伝える記事があったので、

じゃー、スキンケアに使ってもいいんじゃないか、と、ペタペタ・・・

(食塩入りだけど添加物はナシ)

ついでに、右手を覆うアカギレ群にも揉み込んでみる。

パンに塗るより、うんと少ない量でOKとわかった。

 

うーん。

かゆみなどの不快感はなし。

しかしなんというか、深夜のお腹に効く美味しそうな匂いが・・・(><)

これ、布団や枕につくのは避けたいなあ。

バスタオルで掛け布団をカバーしよう。。

インボイスやら、軽減税率やら、haccpやら

インボイスの義務化が迫っている。

割と、みんな、静かだよね・・

免税業者のフリーランスとしては、戦々恐々としてる。

これまでいただけていた消費税分、納めるんですね・・
益税でいい思いしやがってと言われるかもしれませんが、

私たちも経費を支払う上で消費税を納めているし、

だいたい、事業の規模が小さいんですよ。

年収300万円行くかいかないかで、

国民年金も国民保険もどんどん高くなって、

その上消費税分も納めるとなると、単純計算で30万円の減収。

まー、経費の消費税分を差し引いたってどこまで抑えられるか。

ますます緊縮財政、消費拡大には貢献できそうもないわ。

 

 

経理もうんとこせ面倒くさい。

フリーランスのみなさん、経費分の消費税って分けて計上してるの??

これからは、支払った経費の消費税を10%と8%に分けて計上するのよね。

うわー。。。。

経費を項目ごとにつけるだけで精一杯なのに。。。

しかもその合計額を引いた、自分の売り上げ分の消費税は召し上げられる・・

1〜2カ月分の売り上げが逝く・・・

 

 

そんなんで、インボイスの到来に心を暗くしていたら、

今日、haccp(ハサップやら、ハセップやら)の義務化の話を初めて知った。

2018年6月に衆議院を通過したらしい。

 

最近、知人が講習会に行って「もうお店やめようかな」とこぼしてたけど、

「あなたにハサップは関係ないでしょう」と言い放ったばかりだった。

けど、関係なくなかった。

ハサップは飲食店を含む、食品を扱う全ての事業所で義務化されるらしい。

 

件の知人は古稀を越える女性で、1人で細々と食堂を営んでいる。

別に、趣味や道楽でやってるんじゃない。

年金だけでは生活が苦しくて、なんとか自分にできることを模索して、

たどり着いた開業だった。

 

スマートホンさえ「よくわからない」と遠ざけ、

軽減税率も「複雑でわかりにくい」と頭を抱え、

キャッシュレス決済はクレジットカードを時折使うけど、

ポイント還元と結びつけて考えたことなんかない。

 

そんな彼女にも、どうやら、ハサップ義務は迫っているのか。

 

・・・本当に???

 

以前、ハサップを導入した事業所に話を聞いたことあったけど、

かなり大変そうだった。

小規模個人店は正規のハサップよりやや簡易的らしいけど、

それでもハザード分析やら、日々の衛生管理の記録やら、

それなりの労力と、場合によっては費用、継続的な手間がかかりそうだった。

 

・・・無理じゃない??

いや、死ぬほど頑張ればできなくないかもしれないけど、

70越えた彼女に、日々の業務に加えて、

その気力と体力を絞り出せなんて鬼のようだよ。

無理ならやめろってか。

これが本当なら、全国で店をたたむ人がたくさん出るんじゃないだろうか。

 

「食中毒が出たらどうするんだ」とおっしゃるんでしょう。

そりゃ、いままで一度も出たことないからって、

これからも100%出ないとは言えない。

ハサップをやったって、100%は言えない。

 

こういうのは、保険みたいなものだ。

食品安全に関する規制は、長い時をかけて少しずつ厳しくなっている。

口に入れる、自分の身体を作るものだから大事なことだけど、

安心や安全は、追求すればキリがない。

ましてや今後の新規開業店から適用とかではなく、

現在営業するすべての業者にハサップを義務づけるなんて、

人的、経済的力のある、ある程度の規模の業者ならともかく、

個人でささやかに、客の笑顔を支えにギリギリの経営で一皿を提供するような店、

高齢者が生きがいに手料理を振る舞ったり、味噌や漬け物を作って売ったり、

そんな立場の人たちは、ハサップ義務によってやめる人も増えるかもしれない。

厚生省は、そういう現状をわかってるんだろうか。

高齢者も働こうとか、GDP上げようとかいいながら、逆行してるとさえ思う。

せめて、新規開業者からにしようよ。

 

などと言っても、

ハサップの目的は東京五輪で日本の食の安全をアピールすることだそうだから、

2020年にある程度達成できてないと意味ないんでしょうね。

海外並みにやってますよ、てか。

やってますよじゃなくて、急いでやらせましたよ、でしょ。

現状が全然そうじゃないのに、

あわてて取り繕おうってんだから、呆れて物が言えない。

 

消費税増税、軽減税率、謎のポイント還元、インボイスにハサップ、

期待できない年金・・・

なんだかもう、鬱になりそう。

全然わくわくしないし、未来を考えるのが楽しくない。

うーん。。。。

 

何でもかんでも法律や規制で縛らないと安心できない風潮も

いまの息苦しさを生んでいる気がする。

それはもちろん、良かれと思ってやってることもたくさんあるんだろうけど、

 

逆に自分たちの首を絞めていることも少なくないと、

気づいている人は少なくないはずだ。

不安なんだ。

みんな。

だけど、法律や規制に頼らなくても克服できる不安もあるはず。

ルールに身をゆだねるのは楽だけど、自分で考えることを放棄してはだめだと思う。

なんか、とりとめなくなってしまった。

とりあえず、寝よ。。

 

 

備忘録

実家の母に今日聞いた話。

 

石垣から水が漏る。

隣家のT家に迷惑にならないか心配。

 

だが、そもそもは、水やゴミが出ても迷惑がかからないよう、

崖の下はぐるり1mほどうちの敷地があって、溝で仕切られていた。

それを、何十年も昔、T家の先代が自分の土地のようにせっせと耕して、

水田として使っていた。石垣が水に浸かって耐久性が不安だったそうだ。

 

だいぶたってから、T家との協議で、

ご近所とモメたくない祖母が、30cmほど残して土地を譲った。

売ったという風には聞いてない。

でもやっぱり、その30cmさえ、鉢やいろいろなものを置いたりと、

我が家のように使ってらっしゃる。

そこに、うちから水が出たと文句を言われても、

なんだか釈然としない。

 

おまけにこの先代さんの家のお嫁さんが、

うちにあるはずがないような高価なものがあると近所に漏らしていた。

逆に我が家は、あるはずの長治郎の楽茶碗や掛け軸がない。

T家の先代さんは、うちの蔵番を務めてたらしい。

なんだかいろいろと良くない推測をしてしまう。

でも、あなたの家に何があるか見せなさいよ とは言えない。

大きな琺瑯のボウルも、葬式の時に貸したまま帰ってこない。

 

うちは代々お人好しで、土地をタダ同然であげちゃったりして、

人に助けられてもきたけど、見返りを求めないことも随分してきた。

防火水槽が必要だから土地を貸してほしいと自治会にいわれて、

屋敷の一角を提供した。

何十年かたって、防火水槽の耐久年数が過ぎたら、水を抜いてそのままサイナラだ。

敷地の中には、いまだにコンクリートのタンクが埋まっている。

考えられない。

私が借りた側の人間なら、土中のコンクリートをきちんと除去して、

きれいにして返す。

親も親で、誰かが「きれいに始末して返そうよ」と

言ってくれるのを待つばかりで、

自分で訴えることができない。

自分の利益になることを訴えるのは、気がとがめるんである。

 

 

まあ、それはそれで、うちの人たちのいいところでもあると思うけど、

それで人の役に立ったと晴れ晴れできればいいが、

報われない思いばかり抱えて寂しくなるのは、

子どもとしては悲しい。

どのみちもう屋敷を継ぐ人もないし、このまま消えるのだろうけど、

せめて、今日の悲しい気持ちをとどめておこうとメモしてみた。

プールにて

運動不足への危機感がいよいよ募ってきた。

何しろ仕事中はほとんど座りっぱなし、

歩くといえば玄関から車までと、目的地の駐車場から建物までの数メートル。

賢い秘書のグーグル氏によれば、

昨年、私は1年間で800km近く移動しているのに、

歩いた距離は30kmに満たない。

さすがに笑った。

そして、ちょっと焦った。

 

そんな折、ある明け方に首を違える不覚を取った。

いわゆる「ぎっくり首」と思われる。

これが、白目を剥くほど痛い。

ふとオアシスのように、痛みを感じずに済む角度があるのだが、

トイレにも行けば喉も渇く。一定の角度を保つのは難しい。

そしてオアシスから一歩足を踏み外したが最後、

右後ろの首筋を、万力で握りつぶすかのような激痛が襲う。

そもそも悲鳴をあげずにいられないが、大声を出すと痛みが和らぐので、

大げさなほどに叫んでみる。

見かねて相方が休暇を取り、医者へ運んでくれた。

車に乗るのも下りるのも、診察室まで歩くのも、地雷の畑を渡るかのような心地だった。

 

処方された鎮痛剤と湿布は、よく効いた。

それでも身体を起こして頭を支え続けるのが辛く、その日は寝て過ごした。

たまたま急ぎの仕事がない日で幸運だったが、

これは、日ごろの運動不足が祟ったにほかならないと私は痛感した。

 

それで、いよいよ何か運動を始めようと思い立った。

私は水泳が好きだから、市民プールへ行くことにした。

バカンスムード満載のセパレート水着しか持たないが、

気合いを入れてスポーツ用を買っても続くかどうかわからないから、

とりあえず手持ちでトライヤル。

数度通ってみて、習慣化できそうだったら満を持して新調しようと思う。

 

プールは、泳ぎ続ける人、歩く人など、メニューでレーンが分かれていた。

私はひとまず、泳ぎ続けるコースに入ってみた。

プールで泳ぐのは、記憶の限りで10年以上ぶりだ。

25m泳ぎ切れるだろうか。

そう案じたけれど、平泳ぎで100m、足もつかずにあっさり泳げた。

ただ、クロールは持久力が保たない。

今日はならし運転ということで、歩いてもOKのゆっくり泳ぐコースに移り、

往路は歩いて、復路は平泳ぎというスタイルで往復を始めた。

 

そのコースには私のほかに、もう一人女性がいた。

彼女はずっと、クロールで泳ぎ続けていた。

クロールは50mですっかりバテた私は、そのスタミナに感服した。

しばらく、私と彼女と2人でそのレーンを行き来した。

プールの端では、遠慮しなくても追いつかないほどの距離が空くまで休み、

ほどよい間隔を保ちながら黙々と歩き、泳いだ。

 

多分、私が勝手に距離を取っていただけだ。

彼女は殆ど休まななかった。

私は片道歩いている分、帰りの平泳ぎは元気よく進めるので、

彼女が先へ行くのを少し待たないと、追いついて煽るような形になってしまう。

 

それを暗黙の了解として、無言のコミュニケーションを楽しむかのように

私たちは静かにレーンを回り続けた。

すれ違うときは、わずかに腕と脚の広げ方を小さくした。

 

ところが、そうして平泳ぎしていると、プールの半ばを過ぎた辺りで、

不意に水音が後ろからやって来た。

それはあっという間に横に並び、私を追い越して先にプールサイドに着いた。

小学生くらいの女の子がにこにこと立ち、横には父親らしき大柄の男性がいた。

 

子どもに追い越されてムキになるほどの闘志は持たないが、

いい気分ではなかった。

確かにどこにも「追い越し禁止」とは書いていないし、

危険な行為というほどでもないけれど、

前を行くクロールの女性を邪魔しないように気遣って来た私には、

とても無礼に思われた。

そもそも、「あんたトロイのよ」と言わんばかりに追い越してくって、何。

ここはゆっくり泳ぐコースなのに。

早く泳ぎたいなら、そういうコースに行けばいい。

子どもだけならまだしも、父親だって悪びれる様子もない。

 

心の中で小さく憤慨したものの、

私は、今日初めてこのプールへ来た新参者。

追い越しは、ここでは普通のことなのかもしれない。

釈然としないけど、そう落ち着くことにした。

親子は正規の順序へ戻るかのように、私が出発するのを待っていたけど、

私が彼女たちの行く手を阻むのも、後ろからせっつかれるのも嫌だったので、

先に行ってもらった。

せめて、クロールの彼女のペースを妨げないでほしいと願った。

 

それから2往復もしないうちに、親子は別のレーンへ行った。

私たちのレーンは、また2人になった。

平和が戻ったような気がして、ほっとした。

目が合うでもないクロールさんに「良かったね」と心で呼びかけた。

 

その後、一度だけ、スタートサイドで追いついて顔を見合わせた。

彼女が耳から水を抜くために止まっていたためだった。

私よりは、だいぶ若い人に見えた。

私は何かを言おうとしたけど、

たとえば、ずっとクロールで泳ぎ続けてすごいねとか、

スタミナがあるんですねとか、

でも、何も言わずに、目をそらしてしまった。

声をかけたりしたら変な人に思われそうな気がしたし、

自分がかけようとした言葉に対して

「だから何やねん」とセルフツッコミしてしまったし、

まあ、ここは、無理にくさびを打たなくてもさらっと流しておこう、

と思った。

 

1時間ほど私はプールで過ごし、くたくたになって上がった。

初日なだけに無理はせず「今日はこのくらいにしといてやろう」というところだ。

 

小学生のころは、25m泳いではプールサイドを走ってスタートへ戻り、

泳いでは走って戻りを、放課後何時間も繰り返したのに、

いまやわずか1時間で両肩の筋肉(どうやら大胸筋というらしい)が痛くて仕方ない。

何とも情けないけど、正直な所、思っていたよりはよく泳げた。

 

さて問題は、プールが一発花火のイベントになってはいかんということだ。

仕事の都合を考えると、できれば毎週、最低でも月2回は通いたいと思うが、

何しろ継続が大の苦手なので、どうなることやら。

 

そういえば、塩素で随分肌荒れするように感じた。

今夜は保湿クリームを通常の3倍塗って寝よう。

 

いや、3倍はうそ。

生産性という呪い

国会議員の「LGBTは生産性がない」という発言が世を賑わせ、

それに対して「生産性はそれぞれだ」とか「LGBTにも生産性はあるんだ」

などの反論も多く飛び交うのを見る。

 

そうじゃなくて、生産性なんか、なくたっていいじゃん。

生きることに、条件なんかいらないでしょう。

 

この「生産性」という言葉が、とても引っかかる。

生産性は、経済性とほぼ同義だ。

生産性がないもの、経済性が低いものは存在の意味がないように言われるのは、

何年も経済最優先を叫び続けた副作用的価値観だと思う。

先のやまゆり園の事件も、同様の価値観に基づく犯行だった。

高齢者にも同じような視線が向けられている気配を感じる。

 

女性活躍とか、1億総活躍だってそうだ。

「活躍」は、すなわち働いて報酬を生み出すことをさしている。

専業主婦で家事労働をしている人も、立派に活躍しているし、

働く親から孫を預かって面倒をみる祖父母も重労働だ。

しかし、これらはスローガンがいうところの「活躍」には入っていない。

育児や介護や、地域のボランティアや、直接報酬が発生しなくても

大切な役割はたくさんあるのに、働いてお金を得ることだけがエライみたいだ。

実際にそういう人たちがいなくなって、成人すべてが昼間働いてたら、

学校も地域活動も、それこそ経済も回らないと思うんだけどな。

ていうか、「活躍」したくない人だっているんだよ。

「活躍」できる選択肢があるのは大切だけど、

しない選択にも市民権を与えようよ。

 

大体、より多くお金を稼ぐのがエライ、て価値観だから、

「妻もフルタイム勤務だけど給料が旦那より少ないから家事を多く負担する」

などという現象がちまたで聞かれたりする。

勤務時間が短い方が家事を多く負担する、というならまだわかる。

どちらもフルタイムなのに、給料差で家事分担が決まるのはどう考えてもおかしい。

同じくらいしんどいなら、同じように家事も分担するのが道理じゃないか。

それを、稼ぎが少ない分家事で埋め合わせろというのは、

物事の価値をお金でしか考えられない貧しい思想だ。

愛がない。

 

さまざまな文化的作品、展覧会、さまざまなものの善し悪しが、

売上や入場者数のみで判じられていくのを目にすることがある。

個人の好き嫌いまで、数字にゆだねるような話も聞く。

売れてなくても良い小説はあるし、来場者が伸びなくても有意義な展覧会はある。

もちろん、売れなくてはアーティストは音楽活動を続けるのは難しいし、

映画だって漫画だって収入はこの上なく重要だ。

でも、善し悪しや好き嫌いというのは、違う価値軸だと思う

(善し悪しと好き嫌いも、また別のものではあるのだけど)。

爆発的にヒットして大流行したものだけが名作ではない。

何でもかんでもコストパフォーマンスや利益だけで批評するのは、

それしか判断の仕方を知らないからだ。

 

文化財なども、古いものを大切に未来へのこして行く意義が薄れて、

観光などに活用してお金を稼ぐことが推奨されつつあるらしい。

保存・保護にお金がかかるのは事実なので、

「ぼーっとしてないで自分の食い扶持を稼げよ」といいたいのだろう。

もちろん、そういう活かし方が適しているものもあるだろうが、

観光素材で消耗して文化財的価値が損なわれるようでは本末転倒だ。

 

 

文化財で思い出したのがカジノ構想。

これこそ、なりふり構わない「儲かりさえすればいい」精神だと思う。

わざわざ日本に来た外国の人たちを、カジノに連れて行きたいか?

もっと、日本が誇るもの、世界の人たちに見せたいもの、

体験してほしいことは、ほかにたくさんあるはずでしょう。

 

大コケしているらしいクールジャパンはさておき、

日本の文化や営みや、自然などへの投資はもっとできるんじゃないだろうか。

さまざまな伝統職人の育成や、

そもそも伝統文化的なもの取り入れる暮らしを育てることの方が、

よほど大切に思える。

たしかに、地道で、継続性や忍耐力が必要なことではあるけど、

このままだとそう遠くない未来に、いま私たちが「日本的」と思っているものが

どんどん消えていきそうな気がする。

工芸美術は素敵だけど、買う人がいない。

工芸品を作るための道具を作る人は絶滅危惧種

儲からない職人はなり手がいない。

田舎から人はどんどん出て、伝統行事も減っていく。

 

背景にはやっぱり、経済至上主義、お金が一番、という考えがあるように感じる。

 

食器は100円ショップで十分、

着物はいらない、

畳も障子も面倒くさい。

ごもっともだし、個人消費や家計まで話を広げるなら、

それこそ経済のもっと複雑な事情を掘り下げなくてはいけなくなるが、

安いほどいい、用を足せばそれでいい、

古いものより新しいものがいい、

そういう行動をとり続けていると、

やがて「日本らしさ」は消え失せて、私たちには、何も残らない。

お金と、新商品だけが大好きな、カラッポの存在になる。

誰かが掲げている「美しい日本」は、幻の伝説になる。

それでいいわけがない。

そろそろ、経済至上主義や、有り得ない「終わりのない成長」から卒業して、

本当に大切なものは何かを考え直す時だと思う。