誰にも言わずにここに置く

誰にも言わないけど留めておきたい、内省と個人所感メモ。というか主に愚痴。

初めてバリウムを飲んだ話

あまり胃が丈夫な方ではないので、

これまで胃カメラを2度飲んだ。

 

1度目は口から。

悶絶してせっかくのイケメン先生に醜態をさらしたので、

2回目は同じ先生で鼻から。

鼻腔の奥がなんともいえないミッチリ感で、これもしんどかったけど

口よりやや楽だったように感じた。

 

そして今年、集団検診の胃がん検査で

胃カメラバリウムと選択できたので、

これまで経験がないという理由から、バリウムを選んだ。

 

いろいろと伝説を耳にしていた。

曰く、飲むのが苦しい。最高にマズイ。

曰く、イチゴ味。

曰く、ゲップが我慢できない・・・

 

だが、最も私の興味をそそったのは、

白いウンコの伝説だった。

 

胃がん検査は、採血など種々のメニューをこなした後の大ラスだった。

会場は健診カーでぎゅうぎゅう。
ジーンズは金具があるので脱ぐように指示された。

当日は金具のないブラ、ゴムだけのズボンがご推奨。

 

まず粉薬をバリウムで飲み下してくださいと、

発泡剤と少量の白い液体を渡された。

発泡力はすさまじかったけど、バリウムはするっと飲めた。

空気が抜けないよう鼻をつまみながら、楽勝と思った。

 

いよいよ診察台に寝かされてから、

バリウム本番を渡された。

さっきと粘土がまるで違う。

量もかなりのもの。

頑張って飲んだ。ひたすら飲んだ。

うん、イチゴ味っぽい・・・

そして苦行だ・・・

 

撮影が始まると、

身を横たえた診察台は、なんと上下左右に激しく動いた。

技師さんがマイクで「はい頭が下がりますよー」とか、いろいろ実況してくれるけど

動きも喋りも早すぎて、まるでついていけない。

かろうじて「息を止めてー」とか「右に回転してー」とかの指示をこなすけど、

寝てる台も同時に上がったり下がったり傾いたりするもんだから、

何がどうなってるんだかグルグル状態。

アトラクションでも通用しそう。

 

そんなこんなで撮影は終了し、

バスを下りたところで、指示された下剤を飲む。

これで、お目当ての白いウンコと対面できるはずだ。

 

自宅に戻るとちょうど昼だった。

昨夜の6時半ごろから健診に備えて何も食べていないので

お腹が減って仕方ないはずなのに、バリウムでパンパン。

こころなしか、少し下剤が効いてきた気もするけどまだ便意には至らない。

 

1時間ほど経つと、ついに天啓が下った。

いそいそとトイレへ向かう・・・

 

でも、憧れの白い神様は、

私が夢に描いた姿とはだいぶ違った。

液体だった。

もっと形がしっかりある状態を期待していた。

純白の、ピカピカの、固形のつもりだった。

本当にがっかりした。

 

そして、招聘は一度では終わらなかった。

なるほど、「今日は水分をしっかり摂れ」と口酸っぱくいわれるわけだ。

  

一度体験したので、もう今年でヨシとしたい。

これなら、その場が苦しくても後に響かないカメラの方がマシだと思った。

 

そういう悲しい結論ではあったが、

実際に体験して実態を体験できたことには満足している。

良かった。

来年は、胃カメラを選ぼう。

またイケメン先生にお願いしよう。

知人に声をかけるか否か

街で知っている人を見かけたときに、

声をかけるべきかどうか、悩むことがしばしばある。

 

仲の良い人なら何の迷いもないが、

何かの機会に1度会った人、となると、

相手が自分を覚えているかどうかも定かでない。

 

特に距離を縮めたい人なら別だが、

そうでなけでば相手が全くこちらに気づいていない場合、

ほぼこちらも気づかぬふりをする。

もしも目が合ったら、軽く会釈。

そんで向こうが自分を覚えている風だと、

場合によっては少し声も発する。

 

今日会った女性は、

私が数人と話をしている輪に知人を見つけ、

近づいてきたのだった。

 

2年ほど前、彼女は私が関わった仕事にクレームをくださって、

私はチームメイトと謝罪に行った。

そのクレームは私には納得しきれないものだったけど、

全く否がないとも言いきれず、頭を下げに行った。

その前に、「本当に謝罪に値するのだろうか」と

先輩のAさんに相談したりした。

Aさんは、彼女と幾度か仕事をしたことがあるからだ。

Aさんは「そこまでじゃないと思うけどね」と言ってくれた。

 

今日、2年ぶりに会った彼女は、

その共通の知人であるAさんを私たちの輪に見つけて

Aさんに声をかけたのだった。

 

私は、彼女の顔も名前も覚えていた。

彼女は、私に見向きもしなかった。・・ように見えた。

私は「@@です。あの時はすみませんでした。ご無沙汰してます」と、

挨拶すべきかどうか迷った。

だって、彼女は私を覚えていないかも知れない。

たった1度きり、それも、チームメイトの後ろにくっついて訪ねて、

うつむいて説教を聞き、深々と頭を下げて帰った。

私の顔なんか、覚えてないだろう。

しかもその時といまと、髪型も違えばメガネもはずしている。

 

そして、Aさんの前であの謝罪について蒸し返すことは、

彼女にとって不名誉なことであるように思われた。

Aさんも「あのクレームはイチャモンだ」的な解釈だったから。

 

 

数秒間いろいろと考えた結果、

私は2m以内の至近距離で向かい合った彼女に名乗り出ることなく

Aさんらに「またね」と言ってその場を去った。

 

だけど、離れてみると一抹の後悔がないでもなかった。

1つは、実は彼女は私を認識していて、コッソリ「アイツ挨拶もしない」と怒ってるんじゃないかという不安。

もう1つは、改めて自己紹介していたら、これまでの関係から良い方向へ転換できたのではないかという「if」。

 

ただ、良い方向へ変えることができたとしても彼女と仕事をしたいわけでもないので、

単に心証を良くしておきたいだけなら、あまり大きな意味はない。

だけど、暗に怒りを燃やされているとしたらそれも良い気分ではない。

 

まあ、ここは、私が全く覚えていなかったことにしよう、と

勝手に自分に言い聞かせて、

万が一にもAさんが、彼女が私を覚えていたとおっしゃったら、

私は全く彼女を思い出せなかったことにしようと

身を守ることを精一杯考えて、

挨拶しなかった後悔を反省して、

片方では声をかけていても後悔していたかも知れないなんて

あるいは、Aさんの前で彼女に恥をかかせなくて良かったんだなんて、

逃げて、逃げて、

ズルくて卑怯で臆病な自分に散々嫌気がさして、

こんな気分にさせる彼女がますます嫌で、

こんなしみったれた自分ももっと嫌で、

だから、まあ、次にこんな機会があったら今度はちゃんと挨拶しようって

今後の肥やしにすることにして、まあ、今夜は、寝ようと思う。

新陳代謝

フリーで仕事をしている。

振り返れば、自分の意志で運命を切り開くというより、

流れに乗ってやって来た丸太に飛び移りながら

何となく流されてきたような人生だ。

高校は手近なところに、

大学は手堅いところに、

就職は知人のツテで。

転職していまの業界に飛び込んだのは、唯一大きなチャレンジだった。

自宅で仕事をするスタイルは結婚とほぼ同時に構想して、

多少周囲に迷惑をかけつつもその形を実現できたのは、

少しは自分で舵取りをした結果と思う。

そうさせてもらえていることにはとても感謝している。

補償のなさと収入ダウンは想定以上だったけど。

 

ありがたいことにいくつかの企業で仕事をさせてもらって、

どうにか10年続けてこられたわけだけど、

当然ながら同じ分野の新人フリーランスが現れる。

そりゃあそうだわな。

だけどその当たり前の状況に、おびえてしまう。

これまでよく使ってくれていた会社が、その新人さんを試しに起用するそうだ。

もう私はお払い箱かもしれない。

その人の方がうんと技術が上かもしれない。

料金も安くてお手頃かもしれない。

高いくせに大したコトないコイツなんか、もう使わねーよ、てなるかもしれない。

 

実際、多分、私がこの仕事を始めたころは、

そうやって誰かの仕事を奪ってきたのだ。

狭い土地で、全体の仕事量なんて知れている。

新しく現れた人が私の仕事を奪っていっても、何の不思議もない。

じゃあ、どうするんだろう。

 

どうするんだろう。

どうもしようがない。

私はただ、誠実に仕事と向き合い、

技術を磨くよう努力する、それだけだ。

 

飛び込み営業するような職でもない。

料金を下げる気にもならない。

むしろ私が料金を上げようとしてきたことは、

後進にとってはいいことだったと思っている。踏襲してもらえたらね。

 

それで干されてしまったら、

その時は、その時だ。

どうにかして生きるだけだ。

 

どだい、自分は本当にこの仕事がしたいのか、好きなのかなんて、

いまだに思ってしまっているところが良くないんだろう。

私は在宅仕事の舵取りには成功したけど、

その内容は、やっぱり流れてきた丸太にヒョイ乗りして行き着いてる状況だ。

求められるものに応じていたらこうなった。

だって、求めてもらえることがあるなんて、ありがたいことだ。

やりたいことより、望まれるもの、できることをしてきた。

実際できてるかどうかは別として、ここまで生かしてもらえた。

運が良かった、いろいろな意味で。

 

連れ合いは、

やりたいこととできることは違う、やりたいことと求められることは違う

と言う。

だから、求められること、できることがあったら、それでいいんじゃないのと。

そう思う。

「置かれた場所で咲きなさい」と。

咲かせてもらえる場所を与えられるのは、ありがたいことだ。

一方で、本当に咲きたいのは何なんだろう、どこなんだろうと思ってしまう。

 

本当にその答えに正直になったら、「何もしたくない」なんだと思う。

そういうカラッポなところが、新人さんに入り込まれるスキなんだろう。

だから、干されたって当然なのだ。

もっと情熱と使命感と意欲をもって望むべき職なのだ。

そう思いつつも、実際には生活があるから、仕事がなくなると困る。

きっとそれ以上に、自分が選ばれないということがショックなんだと思う。

しょうもないプライド。

同時に、最近少し奢ってたんじゃないかという反省。。。

 

とか何とか、悪い方向へ考えようとすると際限なくて、

気づけば転職のチラシなんか見たりしちゃってるから一層良くない。

どーにかなるさの植木等的な気分で、

できるだけのことはやって、

できないことはしょーがなくて、

まあそのうちいいコトもあるさでノーテンキに上を向くしかない。

 

まあ、それしかない。

 

カーソルの形が変わった。。

イラレをCC2017にアップデートしたら、

カーソルの形が変わってしまった。

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前は矢印だったのに。

この形は、グリップして移動させるときの形だったのに。

長年その感覚で来てるので、最初からこの形でウロウロされると、

選択解除できていないような、オブジェクトを掴んじゃってるような、

すごく不安定な気分になる。。

ペンもなんだか先がチビているような。気のせいかなあ。

 

近年、アップデートに以前のようなワクワクを全く感じなくなった。

CCにしてから特に、「アプデしなさい」表示が鬱陶しいから仕方なく、という感じ。

 

前は良かったな。

新機能への期待に胸を膨らませながら、毎バージョンは無理でも、2つおきくらいにアップデート版を買って、2、3年かけて減価償却して(笑)。

それではアドビさんが儲からないからいまのシステムなんでしょうけど、CCにしてからアドビツールに対する愛着や期待がなくなったように感じる。

道具としてストレスなく動いてね、て感じ。

別にそれで困らないけど(時には今回みたいなストレスフルなアプデもあるので勘弁して欲しい)、何だか寂しいのよね。。

 

Macも似た感じ。モノとして愛着を持つ対象でなくなってきた。

パソコンもスマホも家電も車も、「新しい便利さ」をひねり出す苦しさのようなものを感じることがある。

モデルチェンジとか無理にしなくていいのに。

ずっと変わらないのも素敵なのに。

何十年も前の車の部品がいまもあって直せるとかかっこいいのに、部品製造をやめて無理矢理買い換えさせる。

車やパソコンは、昔よりうんと早い買い換えサイクルが想定されている。

一世一代の買い物だったはずが、いまやタダの消耗品だ。

そんな「失われたときめき」を挙げていたらきりがない。

そのたびに、経済最優先ってロクなもんじゃないなあと思ってしまう。

 

 

食事を作ってくれるのは「いい旦那様」

共働きと家事の問題や悩みって、どの家庭でもあると思う。

うちは子どもがいないし、夫も理解がある方なので、どちらかというと深刻さは浅い方だろう。
朝と昼は自分でしてくれるし、夕食後の後片付けもしてくれる。時には晩ごはんを作ってくれたりする。
とてもありがたい、「良くできた」旦那さまだと思う。
けど、同じことを私がしても、食事以外の掃除や洗濯をしても、「良くできた奥さん」なんて言われないわけです。
どこもそうだと思う。
よほど突出したスペックを発揮しないと、家事に関して「良くできた奥さん」とは言われにくい。それらは、「当たり前」として受け取られるから。

この差って何だろうなあ、と考えてしまう。

私は世間の奥様方の足下にも及ばないようなズボラでありながら「酷い嫁」と夫に罵られないだけありがたいのだろうけど、それでも何となく抱えてしまうモヤモヤには、単に彼の家事分担が少ないとか、それだけではないものが潜んでいるわけです。

それは、私自身の保守性。

家事は女がするんだ、旦那さんにさせるものじゃないんだ、という意識が強烈に刷り込まれているわけです。

だから、少しでも手伝ってくれると、とても感謝します。彼の手を患わせて申し訳ないという気持ちになります。

ところが一方で、男女平等、彼も洗濯や掃除や、もっとフィフティにしてくれてもいいのでは、とも思うわけです。

いちおう共働きなんだから。

ここでよく、特に男性陣から「稼ぎが少ない方が家事をするのは当然」みたいな主張が上がりますが、こんな考え方しかできない男性を伴侶とされた女性たちを心から気の毒に思います。

職業に差別意識を持っているし、心身の疲労具合や忙しさは必ずしも給与に比例しません。フルタイムで働いて帰れば、女性だってクタクタです。そこから炊事して片づけて、とか、逆に「あなたやってみなさいよ?」と旦那勢に言いたい。

かく言う私は在宅ワーカーで、基本家にいるんだから、仕事しながら掃除や洗濯をできるでしょうと思っていた。

けれど、なかなかそううまくいかんのです。

結構時間に追われてるし、掃除も洗濯も体力を奪われるし集中力が途切れてしまう。

考えてみれば、会社に勤めてる人が、職場で洗濯や掃除をしながら職務を全うできるかといえば、できる人もあるかもしれないけど相当邪魔な作業でしょう。自宅でも、仕事場として使うなら同じだなあと最近ようやく気付きました。どうりで洗濯物がたまるわけだ。

洗濯物がたまったからって、夫は文句を言う人ではないのです。
「明日のシャツないやー」って、足りるだけの洗い物を普通にするわけです。どうせなら洗濯機に入るだけ回してくれればいいのに…とは思うけど、そんな贅沢は口にしません。
何も咎めず、かといって怒りを我慢している様子もなく淡々と自分の服を洗ってくれることに感謝するばかりです。

彼も仕事で疲れているので、これ以上負担はかけたくないというのが正直な気持ちです。

私の中では、同じように家事をして欲しいという気持ちと、今以上疲れをためないで欲しい、彼が家事をせずにすむならそれが良い、という2つの気持ちが常に綱引きしているのです。

例えば休日、私にはすることがたくさんです。洗濯、掃除、庭仕事…
でも彼には、それらのことは一切目に入ってないのです。自分がすべきことの範疇に入ってない。
だから、「ちょっと出かけてくる」と家を空けることが多い。私は「手伝って欲しい」とか「することこんなにあるんだよー」とか口元から出そうになるけど、飲み込んでしまう。休日出勤も多いなか、せっかくのお休みを好きにさせてあげたいと思う。

でもさみしいので、一緒に出かけたりする。その場合は、たまった家事は一つも進まない。平日に私がひとりで尻拭いする。

一緒に出かけずに家に残って家事をする場合は、だんだんムカついてくる。
機嫌を悪くするくらいなら、始めから「手伝って」って可愛く言えばいいのに、変な見栄を張るから後始末が悪い。

なかなか出口を見出しづらいけど、思いつくのは次の2つ。

1つには、遠慮なく家事の指示を彼に出せばいい。
1つには、外食になろうが家が汚かろうが洗濯がたまろうが「できるときすればいい」で気にしない。

…どっちも難しい。
ただの気の持ちようの切り替えだけなんだけど、難しい。

で、何が言いたいかというと、もっと教育をしっかりするべきなのです。
女性の社会進出はいいけど、女性は仕事も家事も出産も育児も、あるいは介護も全てこなさなくてはならないのが現状です。

こんなの絶対無理が来る。

どういう形の無理かわかりません。女性の心身にも無理が来るだろうし、個人的には日本社会全体の心身の健康のダウンを懸念しています。何にしろ、一部に負荷が偏っている状況というのは長保ちすると思えない。

男性にも出産以外のことはできるはずです。だからお家では男の子にも料理や家の仕事を教えたりして、メディアも買い物や掃除=女性などの図式ばかり出さないで、「家事は女性がするもの」というイメージを払拭していかないといけない。
男性だって、独り暮らしした経験を持つ人はある程度家事をしてたはず。潜在能力はあるわけです。
そうして若い世代が変わってきたら、私も、少し呪縛から解放されるかもしれない。
まずは自分で何か、もがいてみようと思いますけど。

 

因みに「家事」つながりで流れると、専業主婦というのは、立派な仕事だと私は思います。

いま「一億総活躍」とかで、賃金報酬を得ることばかりが「労働」のように言われるけど、家事だって立派に労働です。

それは、さっきの「稼ぎの少ない方が家事をして当然」みたいな議論の際に引き合いに出される「家政婦を雇えば時給いくらで・・」といった安易な金銭換算ではなく、

暮らしを清潔に保ち、温かくておいしい、栄養を考えた食事を作って家族の健康を支えることは、家族の、ひいては社会の精神と健康の安定を支えることだと思うのです。

私だって、もっと家事を行き届かせて気持ちのいい空間を保って、遅くならない時間に一日の疲れが飛ぶような栄養と消化のいい食事を用意したり、コトコト煮物をしたり、お菓子を焼いたりしたい。もしも時間が余るなら、ボランティアとか社会活動に参加したい。

したいけど、できない。お前がズボラなだけだろうといわれれば返す言葉もありませんが、気力も体力も人それぞれです。私がしたいと思うことを、働きながらできる人もあるんだろうけど、できない人もいる。しなくて平気な人もいるし、できなくてストレスがたまる人だっている。そういうことです。

もちろん、女性が収入を得ることを全く否定しません。私もそうしてるし。さまざまな能力を社会や収入に生かせるのは素晴らしいことです。

大切なのは、選択肢があることだと思います。男性が専業主夫したっていい。昨今は共働き前提の結婚も多いそうですが、私たちの頃はまだ仕事を辞めるか続けるかチラリとでも迷ったものです。同じ迷いが男性に生じたって良いと思うのです。

もっとも現代社会は専業主婦(夫)に否定的な世情のようなので、こういう考えは受け入れられないんでしょうけど。

けど、おうちで努力と工夫をして家族の世話をするよりも、子どもは保育園に預け、年寄りは施設に預けて働きに出て稼ぐことばかりが賞賛されるのは、どうかと思う。

さらに言うなら、そうしないと生活が成り立たない社会自体がどうかと思う。

デフォルトのストレスが非常に大きいと感じます。

気持ち的にも経済的にもゆとりが少ない。いまが良くても油断ができない。

一度つまずけば敗者復活ができない。

うーん、この辺は、もう少し情報と思考をまとめてからまた書こう。。

不安

不安というのは厄介だ。

 

不安を解消しようとしていろいろと頑張るのに、

いざ目先の不安が見当たらない気がすると、

そのこと自体が不安になる。

 

不安がないはずない。

何かを見落としている。

あるいは忘れている。

やり忘れた仕事があるとか、そんなんじゃない。

自分への反省が足らない。

脳天気に構えすぎている。

何だ。

私は、何を見落としているんだ。

必死で不安を探す。

自分に、状況に、満足してはいけない。

そんなのただの勘違いだ。

 

まあ最後は、酒を飲んで寝てしまうわけだが。

脳内メモは消えていく

ブログというものからしばらく離れていた。

共通の趣味を持った友人とのコミュニケーションブログはしていたけど、

趣味の話や日常の他愛ないことしか書けない。

自分の内省的なこと、ニュースや本を見て考えたこと、

何か使えそうなフレーズ、急に気づいたこと。

思考が新鮮なうちはキラキラしてて「こんなの忘れるはずない」と棚にしまったつもりなのだけど、

気づけば消えているどころか、棚にしまったことさえ覚えていない。

これはあまり良くないな、と感じた。

本当は「あっ」と引っかかることがあったのに、それを深めないまま通り過ぎて、

単に目の前を仕事や出来事が流れていくばかり。

少しでも形にして留めておきたい。

あるいは、文字にすることで気持ちや思考を整理したい。

そんなわけで、個人所感や出来事のメモや内省を書きとどめるブログを立ち上げてみた。

飽きっぽいんで、すぐ放置になるかな。

それはそれで、それもまた自分だし、放置されたブログが残る、ということが一つの記録なんだろう。